少女終末旅行9話の感想

録画していた少女終末旅行9話を見た。原作は単行本の形式で読んだので、この話は飽くまでもその巻の中の一つの話、という感覚でさほど印象に残ってはいなかったのだが、しかし二十数分のまとまりのあるアニメとして見たとき、この話は作品上、大きな意味合いを持つ回なのだと感じた。チトとユーリが初めて会話できる機械と出会うことによって、生きているもの=コミュニケーションできるもの、の原則が崩れる。今までの回では、生きて動いている人間たちと機械や街(死んでいるもの)の関係は対比となっていて、その絶妙なコントラストは本作の魅力の一つだろう。例えば、偶然見つけた魚を二人が食べる話だが、あのときはまだ、二人は魚を生物として捉えてはおらず、食料として見ている。しかしそれが9話では覆され、ユーリは魚を自らと対等な生物として捉える。と同時に、建設用のロボットはユーリの手により破壊され、生きていることとは終わりがあることだ、というテーマが提示される。
前半部で、ユーリは水槽でためらいなく全裸になって泳ぐが、チトは「人が見ている」という理由で下着をつけたまま泳ぐ。この時点ではユーリは魚の飼育用ロボットを人だとは認識していない。これは推測だが、チトは本か何かで覚えた、通念的な価値観をロボットに適応しているのである。これはロボットを生物だと認識していることを意味せず、むしろ、それはロボットのくせに人間というレッテルを貼って扱っている。ここでのチトの認識は、飼育用ロボットは人間かもしれないが、生物ではないということなのだ。
そうしているうちに、建設用ロボットが魚のいる水槽の解体をはじめる。魚を守るためにユーリはロボットの破壊を決行するが、これは一つの倫理的な疑問を投げかけている。この前にロボットは生物の一部に入るかもしれないということが言及されているが、すると、ロボットに対する行為は殺害であり、生物への恣意的な格付けといえる。果たしてそれは許されるのだろうか。
すべてが終わった後、二人はロボットと魚に別れを告げ、旅を続けるが、最終的にはチトとユーリはロボットを生物だと考えたのか。僕自身は、彼女らはロボットにすら生命を見出したと思っている。おそらくこのことはその後の展開で明らかになるのだろうが、単行本の内容を忘れてしまったので、どう展開されるのか覚えていない。だが、この作品は先行きを想像するのが楽しいアニメなので、今ここで単行本を読み返すのはもったいない気がする。
この作品には哲学的なテーマが含まれているが、思想だけでゴリ押しする昨今の"意味ありげ"アニメとは一線を画している。単調な終末旅行の中が続く中で、さり気なく倫理についての重要な問いを投げかけていて、そういった面では明らかに成功作だ。視聴者に考える時間を与えるためにも、1クールではなく、もっと長い時間をかけて放映してほしいアニメだ。内容は薄くなるかもしれないが、それこそ10分くらいの尺にすれば持つだろう。できればNHKで、夕方の時間帯にやってほしかった。小学校高学年から中学生くらいが視聴すれば、とてもいい影響を与えるのではないかと思っている(僕がそのくらいの時期に視聴したかったというだけだが)。人間とは何か。社会とは何か。そんなテーマは創作作品の王道で、使い古されたものかもしれないが、それだけに色褪せることはない。