なぜ焼肉を食べたか

昨日から、焼肉が食べたいと思っていた。それはひらめきに近いもので、それはある時突然に降りてきた考えだった。しかし、今思えばそれは随分と理論的に生み出されたひらめきなのかもしれなかった。自らの歩む道を正当化するために、運命論や直感を持ち出して判断の補強に使う。そんなことをする前に、すでに結論は出ているということを僕は知っている。全くもって無駄だし、少なくとも僕自身にはそぐわないやり方である。だが、常に思考と論理が先行する自分のような人間にとって、そのような運命論や直感で物事を決められるような人間にはとにかく憧れてしまうものだ。自らの内面から迸る力が自我を打ち倒して行動を生み出す。フロイトの言葉を借りるのならば、エス超自我より強い人間のタイプか。そういう人を現代社会の中で見つけることは中々難しいのだが、小説や戯曲の作中には頻繁に登場する。それも主役やそれに準ずる重要なキャラクターとして。結局は英雄になりたいだけなのだ。僕は自身をせいぜい"参謀"どまりだと認識しているし、そんな役職に憧れるように自分自身を矯正し、そんな型にはまった様に振る舞い続けていた。ただ、主人公に憧れる脇役とは悲惨なもので、道化に徹すれば徹するほど、悲惨になっていくものだし、かといって主人公の座を奪おうと努力しても、結末は悲劇である。そして、そんな人間は己の限界を認めることができずに、ある意味、主役よりも努力家であったりもする。だけれども、決して主役にはなれない。それは決まっている運命だ。
前述したことはすべて架空のお話の中だけに通用する。このルールを現実世界に当てはめるのはとても大変だ。何故ならば、大体の人間は主役の面と脇役の面の二面性を持っているからである。当然、それは視点や時期によってコロコロと移り変わるものだ。小説では多くの場合が視点と時期を固定して表現される。それに対して人生とは途方もなく長く、そして密度のある物語であり、複雑な人間が複雑な視点を持って鑑賞する。人生を小説や戯曲に擬えて表現することはナンセンスだ。だから僕が突然、焼肉を食べに行っても許される(そこに筋書きなんてないからだ)。
ただ、僕を含めた凡人が人生を大きなスケールで俯瞰して理解することなどできないから、結局は物語のかたちに単純化して捉えざるを得ない。それをすることで、自分自身の置かれている社会的な位置を理解することが楽になる。それは同時に、その固定概念に囚われることを意味するのだが......。そして人々は自らの置かれた位置について悩み続ける。

焼肉はとても美味しかったのだが、しかし脂身を身体が受け付けず、タンとかハラミといった脂身の少ない肉を食べた。途中から魚や野菜が食べたくなった。先程の直感は明後日の方向にずれていた。